「AI」(2001)

2022年04月16日

スタンリーキューブリックが企画したとされる本作。全編にわたり陰鬱な内容が続きますが、不快感を強調する作りにはなっていないため「JOKER」(2019年)ほどキツくはありません。

ついつい「母と子の愛の物語」と解釈してしまいそうになるこの映画、実際には逆とも言えるテーマが描かれています。現実世界の「ある関係性」が、作中の「人」と「ロボット」の関係に置き換えられているのです。その関係性とは何か...?

それは「上級国民」と「下級国民」の関係性です。

感情を持つロボットであるデビットは息子として引き取られ、両親と共に幸せな日々を過ごしますが、難病を患いずっと冷凍保存されていた両親の実の息子であるマーティンが回復したことで、両親はマーティンへ愛情を注ぐようになります。

そしてプールでの事故をきっかけに捨てられたデビットは、廃棄処分された他のロボット達と共にその者達を回収する集団に追われ、まるで虫でも捕まえるかのような方法で捕らえられてしまいます。

捕らえられたデビット達が連れて行かれたのはロボットを処刑台へ固定し、観客がその的にボールを当てることで、処刑台ごとに仕掛けられている様々な装置が、ロボットを破壊していく見せ物をしている場所でした。ロボット達は順番に破壊されていき、森の中にあるロボットを捨てる廃棄場へ、ゴミを集積して廃棄するように捨てられます。ロボットが捨てられると、森の中に潜んでいた、デビットを捕まえた集団から逃れたと思われるロボット達が現れ、自分の体の使えなくなった部品と破壊されたロボットのまだ使える部品を入れ替えるのでした。精巧に作られていたデビットは観客から人間だと思われ、運よくその場を逃げ出します...。

ここまでを先程の関係性に当てはめてみましょう。

破壊されていくロボット達は与えられた社会的役割を果たせなくなった存在です。つまり社会的弱者を表しています。体の部品を入れ替えていたロボット達はホームレスや貧困層の象徴です。「上級国民にとって下級国民(の一個人)とは社会の労働力を構成する砂粒一つ程度の存在でしかない。」と言うテーマが込められています。ではなぜデビットは助かったのか?それはデビットが本作に置いて上級国民と下級国民の中立に位置する存在だからです。

デビットは人間になって母の愛情を得ようと旅を続け、アインシュタインに似たキャラクターが3つまで質問をすると答えてくれる機械で、ピノキオを人間に変えた「ブルーフェアリー」がいる場所を聞き出します。実際は遊園地のオブジェとして像が建てられているだけなのですが...。

ブルーフェアリーの居場所を聞いたデビットはそこへ向かう途中、自身を生み出した制作会社に辿り着き、自分と同じロボットを目にします。自分が世界唯一の存在ではない事を知ったデビットは、存在意義を失い、ビルから身を投げてしまいます。

デビットは水没した遊園地へ辿り着き、ブルーフェアリーの像に願い続けます。そうして時は過ぎ、人類が滅びた後、新たな世界の支配者であるロボット達に助け出されます。発達した科学技術で1日だけ生き返らせた母と幸せな時間を過ごし、母と共にデビットも眠りにつきました。

ブルーフェアリーのエピソードは偶像崇拝を表しています。対象に祈りを捧げて幸運がもたらされる事をデビットがどう感じたかは確か描かれていなかったと思いますが、最後のブルーフェアリーの像が粉々に砕けるシーンから、宗教を否定的に表現していると受け取れます。

デビットの願いを叶えたロボット達は下級国民の象徴ではありません。文明を象徴したキャラクターです。現実世界で最先端の技術を手に入れるのは上級国民であるため、このロボット達も上級国民を表していると言えます。

感情も差別も宗教も個人性も信念も、人が持つ感覚の一つにすぎず、自然でさえもいずれ発達した文明によって支配されるであろう、そしてその中で母への愛情を持ち行動するデビットがどう見えますか?という作品なのですが、デビットがほうれん草を食べて動かなくなる姿や、廃棄用ロボット達が壊されていく様子、ブルーフェアリーに願い続けるデビットのシーンなどから、やはり肯定的ではなく滑稽に描かれている事がうかがえます。

私個人の感想としてはピノキオになぞらえているところや、デビットが見当違いの存在を求めて旅をし最後に望みが叶うシナリオ、映画に込められた重要なテーマなどが面白かったです。

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